3週間のworkationの試みを終えて

 

Workationという言葉、そろそろ1度は目にした耳にした、という方が多くなってきているのではないでしょうか。

work+vacationで、workation。働きながらバケーションを楽しむ、あるいは、休みながら働く、ということ。まだ普通の会社では1日単位の「インプットホリデー」といった制度がようやく出来始めている程度なので、独立し(て起業し)た立場ならではのことをしよう、ということで3 週間、ドイツを中心に欧州に滞在しながらのworkation にトライしてみました。

もともとは、2年に1回開催されるモビリティ関連の展示会Innotransが今年開催されるのと、例年開催されるIFAがいずれも9月のベルリンであることから、その間にあるベルリンマラソンにも参加して、それ以外の期間は現地の友人が部屋を貸してくれるというので、そこにお邪魔しながら家族も呼んだりして、vacationを中心に組み立ててこれを夏休みにしようと思っていたのが昨年末の頃の構想。

しかし、ベルリンマラソンの抽選には落選し(結果的に、偶然にも参加権付きの現地ツアーが見つかったので、それで走りました)、他にも3つの展示会やカンファレンス、視察への参加のお誘いをいただいたりなど、直前まで予定が変わり続け、気がつけば、ベルリンマラソン以外はほとんどvacationの要素がない、という「出張」に変わってしまった、というのが実態でした。

とはいえ、普段とは異なる環境で多くの時間を一人で過ごしたことは、時間をとってさまざまなことをじっくり考えることが出来たと同時にリフレッシュにつながりましたし、一方、カンファレンス・展示会などではご一緒させていただいた方々と有意義な会話やディスカッションを得られたことは単なるインプットを超えて刺激的なものでした。

自分への備忘も兼ねて今回のスケジュール概要を記します。

9/3 往路・日本発(台北で某案件(1) 打合せを経て欧州へ)
9/4-5 IFA(ベルリン)
9/7-10 Ars Electronica(リンツ・オーストリア)
9/12-13 DMEXCO (ケルン)
9/14 某案件(2) 打合せ
9/15-16 ベルリンマラソン(前日EXPO含む)(ベルリン)
9/18-20 Innotrans(ベルリン)
9/21-22 某案件(3) 視察(ストックホルム・スゥエーデン)
9/23-24 復路・日本着

ということで、ここまで見事にスケジュールが埋まるとは、という感じです。移動も仕事関連の予定も全くなかった日は、9/17の1日だけでした。このほか、ベルリンマラソンを別として7回、滞在地を朝に走ることも取り入れ、滞在中の心身のリフレッシュと街の様子を知ることに大いに役にたちました。

期間中の土日よりもフリーの日がはるかに少ないので「これじゃworkationじゃなくてworkだよね」と話したら、勤め人であるドイツ人の友人から「でも、やらされ仕事はゼロでしょう?ならWorkationでしょ。」と言われて、ドイツ人と言えどもサラリーマンとしてのストレスはあるのだな、と思ったりしました(当たり前ではありますが)。

参加した展示会・カンファレンスのジャンルが雑食的に多岐にわたるので、個別の話題はひとまず置くとして、3週間を通しての感想は、

「欧州人は、この先の社会の変化を見極めようとして、頭を使って、議論して、考えている。日本人は考えているだろうか?」

ということ。

これは6月のベルリンでのTOAに参加した時にも思ったことですが、場合によると数百年単位での歴史の節目になるかもしれない、そういう時代や社会の変わり目と思われる今という時を、じっくりと観察して、新しいルールをどう作っていくか、ということを(少なくても一部の)欧州人たちは考えている、それを強く感じます。

例えばGoogleが欧州でなにをしようとしているか、というテーマのセッションがDMEXCOでありましたが、1500人以上入れると思われる会場は立ち見が出るほどの満員でした。また、同じくDMEXCOでは、デジタルマーケティングとの関係がまだ密接とは認識されていないのでは、と思われるブロックチェーン関連のセッションも多数開催され、新しくやってくる技術やそれを活用する会社に対して、それをいわば「異物」として、しっかりと認識し、特性や意図などを把握した上で、どう咀嚼するのか、という態度を感じます。

また、Ars Electronicaでは、人体の科学的解明が進んで、生命の神秘がもはや神秘ではなくなろうとし、AIが人体を越えようとしている科学の時代の行き着く先にあるもの、というテーマを、アートがどのように捉えそれを社会に発信するか、という意識を感じました。

いずれも、社会に起きていること、起きようとしていることを俯瞰し把握した上で、ものごとの本質を捉え直し、そこからあるべき姿を見出し、次の時代に向けての方向性を定める、大きな意味での「ルール」を作っていく、という動きの中にある、と強く感じます。

ちょうど昨年ルターの宗教改革から500年だったのですが、さすがに彼ら欧州人はルターの末裔たちなのだな、と思いました(ちなみにルターはドイツ人です)。

翻って、これらの展示会等に出展・参加していた日本企業からは、総じて、そうした思考、あるいは新しい時代への思索、といったものは、残念ながら感じることは出来ませんでした。

別な言い方をすれば、ルール作りに参加する、という意思が感じられませんでした。

もちろん、日本人の長所は、ルールを作るところにはなく、決められたルールに従ってうまくやることだ、ということなのかもしれないし、そうであるならそれはそれで良いのかもしれません。

ただ、従うにしても、いかにしてルールが作られ、その背景の思想はどのようになっているか、ルールが作られていく現場に居合わせておく方が有利ではないか、と個人的には思うのですが、どうも、そういうことでもないようなのです。

もちろん、多数の出展があった中国の企業にもそうした意思は感じないのですが、そのぶん彼らは、かつての日本企業を彷彿とさせるように、新しい技術を積極的に取り入れた製品のプレゼンテーションをし、積極性とスピード感において、日本企業をはるかに抜き去っています。

「日本の鉄道技術(新幹線)の海外への売り込みが思うようではない一因は、(交通に関する)哲学・思想がないからではないか。」という意見を聞いた時には、ひょっとするとそうかもしれない、と思わずにはいられませんでした。

テクノロジーが社会を変える、それも劇的なまでに、という時代であるからこそ、テクノロジーに目を向けることは大切ですが、それ以上に、そのテクノロジーがどのように社会に実装されていくべきなのか、という思索や本質に立ち戻った議論、あるいは哲学といったものが重要になっているのではないか。

20世紀後半において、日本と同様に敗戦国から出発して技術(製造業)で社会を立て直したドイツで、そのような動きを感じながら、日本の今とこれからについて、思うところの多い3週間でした。