今の日本に足りないもの

3週間のWorkation を終え、その後ウラジオストク見学と台湾での講演を終えて、少し落ちついたかな、という感じです。

久しぶりに、海外でのインプットをじっくりと行い、また講演というアウトプットとそれに対する質疑応答などのディスカッションもした後で、痛切に感じることは、前回もちょっと書いたのですが、「考えること」が今の日本に必要とされているのではないか、「考えること」があまりにも少なく、あるいは薄くなっていないか、ということです。前回書いたことを読み直してみると、さらっと触れていた「考えること」についての必要性・重要性が、日増しにより大きな課題であると思うようになっています。

今週開催されていたCEATECでは、これまでに比べると、展示の内容もずいぶん様変わりし、時代の変化をより多く取り入れるようになっていると感じて、それはとても素晴らしいことだと思います。

ただ、展示されているものの中に、クルマに積まれた移動式ATMであったり、専用ハードを使った店舗の順番待ちを知らせる呼び出しベルシステム(フードコートなどで注文すると渡されて、自分の料理が出来上がると鳴ったり振動したりするアレです)があったりすることは、ちょっと不安になってしまいました。

確かに、今日明日のビジネスと、未来のビジネスでは求められるものが違い、今日明日でいえば、いきなりATMや呼び出しベルが要らなくなったりはしないので、そういうモノの必要性は否定しません。

ただ、本当に未来については別、と考えているのだろうか、というのが、不安なのです。

例えばキャッシュレス。にわかに注目されていますが、その根本には、現金を扱うことに伴う膨大なコストとリスクを劇的に減らして、社会の効率化を促す、という目的があるのだと理解しています。

お札や硬貨の製造にかかるコスト(単に原料だけでなく、偽造防止の技術開発なども含めた人的コストも)、現金を輸送するために輸送車を作り、盗難防止のために警備員を雇い保険をかけ、ガソリン代を使って運んで、高価な精密機器であるATMに補充する。銀行では午後3時にシャッターがしまった後、現金の勘定をすることに高学歴の優秀な人たちの時間が使われ、お店でもレジを閉めると同様の現金勘定が発生、それをある程度自動化するために、より高価なレジ機器を購入し…、という現金を扱うことによって発生しているコストに、私たちは目がいっていなかったし、つい最近まではそれに気がついていても代替手段がなかったわけですが、デジタルテクノロジーの進化とデバイス(主にスマートフォン)の普及がそれを可能にしたわけです。

そうであれば、お金の流れの中に、1箇所でも現金が介在したのでは、他のところがいくら「キャッシュレス」に見えても、それは本当のキャッシュレスではなく、結局は現金にまつわるコストがかかり続けることになります。

また、スマホで事足りる機能を、わざわざ専用の機器を作って対応することも、コストの増加要因になっています。

今の日本で「キャッシュレス」と言われるものには、どこかで現金をチャージしなければいけなかったり、結局は店頭でまとめて現金で払わなければいけなかったりするものも多く、それでは「キャッシュレス」の効果や社会的意義は半減してしまい、私たちのコスト負担も続いていくので、本当の意味でのキャッシュレスを実現した国とは、同じ値段のモノを売っても、コストのかかり方によって残る利益が違うことになります。

これは一例で、そのほかにも、ネットで予約したのに駅の券売機で紙のチケットを引き取らなければならない日本の新幹線のチケットや、海外の配車システムと同じように(乗客からは)見えても、実際には人間による配車室が挟まっていてアナログマッチングになっている日本のタクシーアプリなど、せっかくのデジタル化が中途半端なまま、本来であれば省ける機器や人手が未だに介在していて余分なコストがかかり続けているものが沢山あるのが、日本の現実です。そして、そのコスト分は、給料が一向に上がらない要因の一つにもなっている、と言えるのでしょう。

もちろん、現金輸送車とその警備員や、券売機やATMとそのメンテナンス要員などが要らなくなれば、こうした人たちは失業することになります。しかし、人手不足が叫ばれ、実際にそれが原因で倒産する会社も出ている中で、不要となりつつある仕事の雇用を守ることと、需要があるのに働き手がいないことで事業が行き詰まることとの社会的損失を考えると、どうにもいたたまれないものがあります。人手不足で、今ほど職を失っても次の職につける可能性が高い状況はないと言える時に、こうした社会の適正な作り直しをしていかずして、いつやるのだろう、と。

他にも思うところは多々あるのですが、「キャッシュレス」にせよ「ブロックチェーン」にせよ、技術的な詳細の理解の前に、それらの社会的な意味やインパクト、それらが生まれてきている背景、といった「思想」や「哲学」、ありていに言えば「考えること」がないと、下手をするとあさっての方向に努力してしまうことにならないか。よく考えることをせずに単に現象面だけを追いかけているせいか、日本人としてちょっと恥ずかしいなと思うような出展をしてしまう日本企業の姿を9月の欧州で1社ならず見てきただけに、危惧を強めているこの頃です。