起業家教育を多くの人に

ひょんなことから、かつての出向先でスタートアップへの投資や育成に関わらせてもらったことがきっかけで、起業家と呼ばれる人たちと(本格的に)お付き合いをするようになって7年ほどになります。

組織を離れた今も、数社のスタートアップに関わらせてもらい、定期的にオフィスに行ってそこで仕事をさせてもらうなど、日常的にスタートアップ企業との接点があるので、「スタートアップの今」については引き続き一定の肌感覚を維持しているかと思いますし、自分にとっては馴染みのある、空気のような当たり前のことになっています。

ただ、それは一般の企業に勤めている方の多くにとっては、当たり前のことではないのだな、ということを、大企業の方と話していて、改めて気づかされることが少なくありません。大企業が困っている課題の解決に、スタートアップが取り入れている手法やサービスが役に立つ、ということも少なからずあるように思うのですが、そうした情報を大企業の人は知らないことが多いな、と感じます。

その意味で、起業家を生む教育は、起業家にならなかった人にも役に立つのだと感じます。リンク先の記事を読んでいると、先行する米国とそれを追う欧州の事情がわかるのですが、日本の教育機関でこうした取り組みがどうなっているのか、残念ながら私には詳しいことがわかりません。おそらく、欧州の後塵を拝する、というような状況であるのかな、とは思っています。

> コラム-ヨーロッパにおける起業家教育事情-

起業家を育てるだけでなく、既存の企業や事業をより良いものにするためにも、起業家教育が充実することの意義は大きいと思うのですが、一点気になるのは、どうしても日本の場合、アメリカのスタイルを無条件・無批判に受け入れてしまいがち、ということ。

リンク先でも指摘されているように、

ヨーロッパの価値観では起業家教育はValue for othersに力点が置かれているが、ここが米国ではValue for myselfに力点があるということだ。日本人の思考回路はヨーロッパに近いと言えるのかも知れない。

これは、私も漠然とながら感じることと共通しています。スタートアップにとって、VCが非常に(圧倒的に)大きな力を持つ米国と、大企業の役割が相対的に大きいと思われる欧州の違い、ということの反映でもあると思います。そして、その面でも日本は米国型ではなく、欧州型に近いのではないでしょうか。

ともあれ、日本の大企業のイノベーションのためにも、また今後の個人のスキルセットという観点でも、起業家教育の充実は重要なポイントだと感じますし、記事にある他国の事例のように、小学生の段階から起業家教育をスタートさせることの重要性は、時代の大きな転換期を迎えて、今後ますます大きくなるのではないか、と感じるこの頃です。

データ(デジタル)覇権を巡る2つの対立軸

データを中心とする覇権争いに関しては2つの対立軸で捉えることが適切なのでは、と思っていたところにこの記事が出たので、自分の思考の整理もかねてまとめてみた。

> デジタル覇権 国家が争奪 米に焦り、対中包囲網

日本の地理的歴史的関係からアメリカと中国に目が行きがちであるが、これら2カ国を見ることでは、大きく2つある対立軸の1つしか見たことにならないのだと思う。

アメリカと中国は対立し、覇権を争うライバルの関係だが、やっていることはどちらも中央集権的な、ある意味では古いスタイルで覇権を握ろうという動きだ。中国はデジタルの万里の長城(いわゆる金盾)を築いてアメリカのGAFAを中心としたサービスを国内から締め出しているが、それによって中国版のGAFAを作ろうとしている、という意味ではアメリカと中国の動きは同じである。それをアメリカではGAFAという企業が、中国では政府が主導している、という主体の差にすぎない。中国の一帯一路についても、こうした動きの一部をなすものとして理解しておくべきだろう。

この米中2大勢力の存在のみを前提とするなら、日本はどちらにデータ覇権を握らせるのか、という選択肢しかなく、自国のデータを渡す先が違うだけ、ということになってしまう。

 © aKtivevision Ltd.

ここで見ておくべきもう一つの対立軸は、アメリカのGAFAに対してGDPRで牽制をかけるEU(欧州)の存在。EUという国家集合体の性質上も、彼らは脱中央集権ないし非中央集権的なデータの保有と利用を志向しているように見える。もし中国がEUに対してGAFAのような攻勢をかけるのであれば、EUは対アメリカと同様にGDPRでその動きを牽制することになるだろう。

EUを離れようとしている英国は、この構図の中で、どう振舞おうとするのか。ブレクジットを反EU的な動きと理解するなら、アメリカと同じ中央集権的な動きに与する、ということになるのだろうか。記事中の図にあるように、英国の握るデータ資源は米中に次ぐシェアを持っているだけに、ここはもう少し見極めが必要であると思う。

このように大きく2つの対立軸があり、英国の動きが不透明であるという中で、日本はどのようにポジションを取るべきか。この先は、個々人の考え方によると思うのでここでは立ち入らないことにしたいが、

  • アメリカと中国の対立に対して、どう対応するか(対立軸1)
  • 米中とEU(欧州)の対立に対して、どう対応するか(対立軸2)

という2つの視点で考えていく必要があるのではないか、と思っている。
そして、データないしデジタル覇権に限らず、この対立軸を意識しながら全体像を理解することが、この先の世界を考えていく上で重要なことだと思うのだが、冒頭にも書いた通り、どうしても米中のみに視線がいってしまいがちであるわれわれは、2つ目の対立軸を意識的に見ておく必要があると感じている。

(COMEMOより転載)

新しい「雇い方」=「働き方」のきざし

最近、求人サイトなどを見ていてきざしを感じるのは、雇う側も「自由な雇い方」になってきているのかな、ということ。まだまだ、少しづつの変化なのですが。

この変化は、1)自社の事業である新規事業の支援の過程で起こる人材募集の観点と、2)組織を離れて独立した自分自身の起業プロセスの観点の両面で、非常に興味深いものと感じます。

これまで求人というと、かなりカッチリしたフォーマットで募集されていて、例えばアルバイトであれば、何曜日の何時から何時までの勤務、休憩は何分で時給はいくら、といったことが、あらかじめ規定されているものでした。

これは特にいわゆる「下請け」とか「外注」の請け仕事だと、元の発注主に対してもこうしたカッチリした条件での契約をしている関係で、そうならざるを得ないんだろうと思います。また、大企業だと、コンプライアンスだとか管理の都合上、こうしたフォーマット化されたもので労働を把握し管理して行かなければならない、ということもあるのでしょう。

しかし、冷静に考えると、例えば書類の仕分け作業で納期・完了期限が毎週金曜の15時であれば、それに間に合うなら、仕分けが終わるのが2日前の水曜日の午前中であろうと当日金曜日の朝であろうと構わないはずです。それを、木曜日の10時から15時までの事務作業という形で、時間や賃金を原則固定してアルバイトであれ、さらには社員であれ雇用してきたのが従来の方法でした。

しかし、この従来の雇い方だと、水曜日なら時間が空いているのに木曜には別な予定がある、という人に仕事を依頼することができません。仮にその人がとても正確で優秀な書類仕分けのプロであったとしても、木曜の指定時間に来れる人がちょっといい加減でミスをよくするような人しかいなければ、その人に頼むしかなかった。

そして、求人関連のサービスも、こうしたカッチリしたフォーマットに沿って組み立てられているので、自由度の高い求人というのがそもそも難しかった、という事情があるのかもしれません。

最近になって、費用を払って利用する従来型の求人サービスの他に、ジモティのようなローカル情報の無料掲示板サイトで求人したり、求人サイトでもindeedスタンバイのようなリスト型・検索型で掲載無料のものが出てきたりしていることで、特に中小企業でも若い会社の求人は、こうしたサービスやサイトを通じて行われ始めているように感じます。

そうした会社の求人は従来の求人スタイルからは自由で、たとえば時給は◯円だけど終わってしまえば帰っていいです、というような実質的に出来高払いであったり、だいたいこのくらい払うけど時給で払うか1回いくらで払うかは相談して決めましょう、といったものを実際に見かけています。また、働く時間についても、いついつまでに終わっていれば問題ないから、それまでに終わらせてくれればいつやってもらってもいいです、といった求人も、やはり実際にありました。

まだアルバイトがメインですが、こういう求人募集が出てきてることは、これからの雇い方の進む方向を示唆しているように思います。

労働法制的に、こうした求人やそれに基づく雇用が現行法上問題ないかというと、微妙な部分はあるのかもしれません。ただ、適性や能力に関係なく時間で拘束し、働く側の都合より雇う側の管理の都合で勤務時間を拘束する、というやり方は、人手不足の今の日本においては、ふさわしくないものになっている、ということは言えると思います。

もちろん、こうした雇い方ができる仕事とそうでないものはありますが、一律に労働時間の長さと給与や働くタイミング(日時)を固定した「働かせ方」は、副業の解禁などとともに、再考するする時期に来ているのかと思います。

それをやると労務管理が複雑化する、という声が聞こえそうですが、そういう仕事こそデジタル化し、近い将来にはAI等も導入して管理すればよく、ついでに会社の管理部門のスリム化を図っていく、ということが大切なのではないかと思います。

そして、こういう働き方が一般的になるなら、仮に組織を離れて独立しても、自分の事業が軌道に乗るまでの間は、自分の事業に支障のない空き時間に自由度の高いアルバイトなどの雇われ仕事を取り入れて最低限の収入を確保する、ということが可能になるはずで、そうすれば独立に対するハードルも低くなるのではないか、と思います。

さらには、自分の事業と直接間接に関連するようなアルバイトをすることで、単に収入を確保するだけでなく、雇用主との人脈形成や、業界知識の習得、リアルな定性的マーケティング情報の収集など、お金では測れない価値を得ることすら可能でしょう。この点ついては、以前にも指摘しました。

 

実は私も、ご近所の貸会議室の管理の仕事を見つけたので、自社事業とは別に個人としてそのアルバイトを始めています。金額的な実入りは微々たるものですが、時給とはなっているものの、やることをやればそれでOK(規定時間ではなく成果に対する報酬)で、前回の利用から次の利用予約までの間の都合の良い時にやればよい、という雇用主側からの承諾をもらっているので、自宅の行き帰りの少しの時間を使ってやるだけですから、負担も微々たるもの。その代わり、会議室を借りたいとなればそこを借りればよいですし、貸会議室ビジネスの実情(稼働率など)も見えてくるなど、興味深いものがあります。また、雇用主との良好な関係もあり、出張不在などの際に融通を利かせてもらえるのも、さらに柔軟な働き方が出来てありがたいところ。

近い将来には、こういう雇い方=働き方が増えてくるのだろうと思われ、そうなれば自分が働くことをもっと柔軟に組み立てられることになるので、組織に属するか否かという境界線も今よりは曖昧になって、独立を考える人にとってはハードルが低くなる可能性もあるかな、と思っています。

ただ、働く側が、そうした働き方に順応して労働観をアップデートし、自分で組み立てるスキルを持つことは必要にはなってくるので、雇う側とともに雇われる側(働く側)の意識も変わっていく必要はありそうです。

今の日本に足りないもの

3週間のWorkation を終え、その後ウラジオストク見学と台湾での講演を終えて、少し落ちついたかな、という感じです。

久しぶりに、海外でのインプットをじっくりと行い、また講演というアウトプットとそれに対する質疑応答などのディスカッションもした後で、痛切に感じることは、前回もちょっと書いたのですが、「考えること」が今の日本に必要とされているのではないか、「考えること」があまりにも少なく、あるいは薄くなっていないか、ということです。前回書いたことを読み直してみると、さらっと触れていた「考えること」についての必要性・重要性が、日増しにより大きな課題であると思うようになっています。

今週開催されていたCEATECでは、これまでに比べると、展示の内容もずいぶん様変わりし、時代の変化をより多く取り入れるようになっていると感じて、それはとても素晴らしいことだと思います。

ただ、展示されているものの中に、クルマに積まれた移動式ATMであったり、専用ハードを使った店舗の順番待ちを知らせる呼び出しベルシステム(フードコートなどで注文すると渡されて、自分の料理が出来上がると鳴ったり振動したりするアレです)があったりすることは、ちょっと不安になってしまいました。

確かに、今日明日のビジネスと、未来のビジネスでは求められるものが違い、今日明日でいえば、いきなりATMや呼び出しベルが要らなくなったりはしないので、そういうモノの必要性は否定しません。

ただ、本当に未来については別、と考えているのだろうか、というのが、不安なのです。

例えばキャッシュレス。にわかに注目されていますが、その根本には、現金を扱うことに伴う膨大なコストとリスクを劇的に減らして、社会の効率化を促す、という目的があるのだと理解しています。

お札や硬貨の製造にかかるコスト(単に原料だけでなく、偽造防止の技術開発なども含めた人的コストも)、現金を輸送するために輸送車を作り、盗難防止のために警備員を雇い保険をかけ、ガソリン代を使って運んで、高価な精密機器であるATMに補充する。銀行では午後3時にシャッターがしまった後、現金の勘定をすることに高学歴の優秀な人たちの時間が使われ、お店でもレジを閉めると同様の現金勘定が発生、それをある程度自動化するために、より高価なレジ機器を購入し…、という現金を扱うことによって発生しているコストに、私たちは目がいっていなかったし、つい最近まではそれに気がついていても代替手段がなかったわけですが、デジタルテクノロジーの進化とデバイス(主にスマートフォン)の普及がそれを可能にしたわけです。

そうであれば、お金の流れの中に、1箇所でも現金が介在したのでは、他のところがいくら「キャッシュレス」に見えても、それは本当のキャッシュレスではなく、結局は現金にまつわるコストがかかり続けることになります。

また、スマホで事足りる機能を、わざわざ専用の機器を作って対応することも、コストの増加要因になっています。

今の日本で「キャッシュレス」と言われるものには、どこかで現金をチャージしなければいけなかったり、結局は店頭でまとめて現金で払わなければいけなかったりするものも多く、それでは「キャッシュレス」の効果や社会的意義は半減してしまい、私たちのコスト負担も続いていくので、本当の意味でのキャッシュレスを実現した国とは、同じ値段のモノを売っても、コストのかかり方によって残る利益が違うことになります。

これは一例で、そのほかにも、ネットで予約したのに駅の券売機で紙のチケットを引き取らなければならない日本の新幹線のチケットや、海外の配車システムと同じように(乗客からは)見えても、実際には人間による配車室が挟まっていてアナログマッチングになっている日本のタクシーアプリなど、せっかくのデジタル化が中途半端なまま、本来であれば省ける機器や人手が未だに介在していて余分なコストがかかり続けているものが沢山あるのが、日本の現実です。そして、そのコスト分は、給料が一向に上がらない要因の一つにもなっている、と言えるのでしょう。

もちろん、現金輸送車とその警備員や、券売機やATMとそのメンテナンス要員などが要らなくなれば、こうした人たちは失業することになります。しかし、人手不足が叫ばれ、実際にそれが原因で倒産する会社も出ている中で、不要となりつつある仕事の雇用を守ることと、需要があるのに働き手がいないことで事業が行き詰まることとの社会的損失を考えると、どうにもいたたまれないものがあります。人手不足で、今ほど職を失っても次の職につける可能性が高い状況はないと言える時に、こうした社会の適正な作り直しをしていかずして、いつやるのだろう、と。

他にも思うところは多々あるのですが、「キャッシュレス」にせよ「ブロックチェーン」にせよ、技術的な詳細の理解の前に、それらの社会的な意味やインパクト、それらが生まれてきている背景、といった「思想」や「哲学」、ありていに言えば「考えること」がないと、下手をするとあさっての方向に努力してしまうことにならないか。よく考えることをせずに単に現象面だけを追いかけているせいか、日本人としてちょっと恥ずかしいなと思うような出展をしてしまう日本企業の姿を9月の欧州で1社ならず見てきただけに、危惧を強めているこの頃です。

3週間のworkationの試みを終えて

 

Workationという言葉、そろそろ1度は目にした耳にした、という方が多くなってきているのではないでしょうか。

work+vacationで、workation。働きながらバケーションを楽しむ、あるいは、休みながら働く、ということ。まだ普通の会社では1日単位の「インプットホリデー」といった制度がようやく出来始めている程度なので、独立し(て起業し)た立場ならではのことをしよう、ということで3 週間、ドイツを中心に欧州に滞在しながらのworkation にトライしてみました。

もともとは、2年に1回開催されるモビリティ関連の展示会Innotransが今年開催されるのと、例年開催されるIFAがいずれも9月のベルリンであることから、その間にあるベルリンマラソンにも参加して、それ以外の期間は現地の友人が部屋を貸してくれるというので、そこにお邪魔しながら家族も呼んだりして、vacationを中心に組み立ててこれを夏休みにしようと思っていたのが昨年末の頃の構想。

しかし、ベルリンマラソンの抽選には落選し(結果的に、偶然にも参加権付きの現地ツアーが見つかったので、それで走りました)、他にも3つの展示会やカンファレンス、視察への参加のお誘いをいただいたりなど、直前まで予定が変わり続け、気がつけば、ベルリンマラソン以外はほとんどvacationの要素がない、という「出張」に変わってしまった、というのが実態でした。

とはいえ、普段とは異なる環境で多くの時間を一人で過ごしたことは、時間をとってさまざまなことをじっくり考えることが出来たと同時にリフレッシュにつながりましたし、一方、カンファレンス・展示会などではご一緒させていただいた方々と有意義な会話やディスカッションを得られたことは単なるインプットを超えて刺激的なものでした。

自分への備忘も兼ねて今回のスケジュール概要を記します。

9/3 往路・日本発(台北で某案件(1) 打合せを経て欧州へ)
9/4-5 IFA(ベルリン)
9/7-10 Ars Electronica(リンツ・オーストリア)
9/12-13 DMEXCO (ケルン)
9/14 某案件(2) 打合せ
9/15-16 ベルリンマラソン(前日EXPO含む)(ベルリン)
9/18-20 Innotrans(ベルリン)
9/21-22 某案件(3) 視察(ストックホルム・スゥエーデン)
9/23-24 復路・日本着

ということで、ここまで見事にスケジュールが埋まるとは、という感じです。移動も仕事関連の予定も全くなかった日は、9/17の1日だけでした。このほか、ベルリンマラソンを別として7回、滞在地を朝に走ることも取り入れ、滞在中の心身のリフレッシュと街の様子を知ることに大いに役にたちました。

期間中の土日よりもフリーの日がはるかに少ないので「これじゃworkationじゃなくてworkだよね」と話したら、勤め人であるドイツ人の友人から「でも、やらされ仕事はゼロでしょう?ならWorkationでしょ。」と言われて、ドイツ人と言えどもサラリーマンとしてのストレスはあるのだな、と思ったりしました(当たり前ではありますが)。

参加した展示会・カンファレンスのジャンルが雑食的に多岐にわたるので、個別の話題はひとまず置くとして、3週間を通しての感想は、

「欧州人は、この先の社会の変化を見極めようとして、頭を使って、議論して、考えている。日本人は考えているだろうか?」

ということ。

これは6月のベルリンでのTOAに参加した時にも思ったことですが、場合によると数百年単位での歴史の節目になるかもしれない、そういう時代や社会の変わり目と思われる今という時を、じっくりと観察して、新しいルールをどう作っていくか、ということを(少なくても一部の)欧州人たちは考えている、それを強く感じます。

例えばGoogleが欧州でなにをしようとしているか、というテーマのセッションがDMEXCOでありましたが、1500人以上入れると思われる会場は立ち見が出るほどの満員でした。また、同じくDMEXCOでは、デジタルマーケティングとの関係がまだ密接とは認識されていないのでは、と思われるブロックチェーン関連のセッションも多数開催され、新しくやってくる技術やそれを活用する会社に対して、それをいわば「異物」として、しっかりと認識し、特性や意図などを把握した上で、どう咀嚼するのか、という態度を感じます。

また、Ars Electronicaでは、人体の科学的解明が進んで、生命の神秘がもはや神秘ではなくなろうとし、AIが人体を越えようとしている科学の時代の行き着く先にあるもの、というテーマを、アートがどのように捉えそれを社会に発信するか、という意識を感じました。

いずれも、社会に起きていること、起きようとしていることを俯瞰し把握した上で、ものごとの本質を捉え直し、そこからあるべき姿を見出し、次の時代に向けての方向性を定める、大きな意味での「ルール」を作っていく、という動きの中にある、と強く感じます。

ちょうど昨年ルターの宗教改革から500年だったのですが、さすがに彼ら欧州人はルターの末裔たちなのだな、と思いました(ちなみにルターはドイツ人です)。

翻って、これらの展示会等に出展・参加していた日本企業からは、総じて、そうした思考、あるいは新しい時代への思索、といったものは、残念ながら感じることは出来ませんでした。

別な言い方をすれば、ルール作りに参加する、という意思が感じられませんでした。

もちろん、日本人の長所は、ルールを作るところにはなく、決められたルールに従ってうまくやることだ、ということなのかもしれないし、そうであるならそれはそれで良いのかもしれません。

ただ、従うにしても、いかにしてルールが作られ、その背景の思想はどのようになっているか、ルールが作られていく現場に居合わせておく方が有利ではないか、と個人的には思うのですが、どうも、そういうことでもないようなのです。

もちろん、多数の出展があった中国の企業にもそうした意思は感じないのですが、そのぶん彼らは、かつての日本企業を彷彿とさせるように、新しい技術を積極的に取り入れた製品のプレゼンテーションをし、積極性とスピード感において、日本企業をはるかに抜き去っています。

「日本の鉄道技術(新幹線)の海外への売り込みが思うようではない一因は、(交通に関する)哲学・思想がないからではないか。」という意見を聞いた時には、ひょっとするとそうかもしれない、と思わずにはいられませんでした。

テクノロジーが社会を変える、それも劇的なまでに、という時代であるからこそ、テクノロジーに目を向けることは大切ですが、それ以上に、そのテクノロジーがどのように社会に実装されていくべきなのか、という思索や本質に立ち戻った議論、あるいは哲学といったものが重要になっているのではないか。

20世紀後半において、日本と同様に敗戦国から出発して技術(製造業)で社会を立て直したドイツで、そのような動きを感じながら、日本の今とこれからについて、思うところの多い3週間でした。

「副業(複業)」を考える 〜本当に”コンビニのレジ打ちしてもしょうがない”のか?〜

昨今の「働き方改革」で注目されている「副業(ないし複業)」。

主には、企業に勤める人が、別な企業の仕事をすることをもって「副業」と定義し、従来は就業規則で禁止してきた「副業」を認めよう、という流れになっていることは、ご承知の通りです。

私自身は、勤めた会社が副業禁止でしたのでこの意味での「副業」の経験はないのですが、それだけに、この副業の定義にはちょっと違和感が。

人生100年時代と言われる中で、副業とは定年という強制的に迎えざるを得ない節目を乗り越えて仕事をして行くために、新しい仕事の可能性をテストをし、スキルや経験などを積んでいくためのもの、と広く捉えるのが本筋ではないか、と思うのです。それが当たり前になると、事実上、定年の規定自体が無意味になるので、今の20-30代の人などは、それが当たり前になるのかも知れない。そして、副業は今の本業のクオリティを高めてくれる可能性すら秘めているのではないか、と。

そうであれば、現在、自分が勤めている会社の仕事でも、日々行っている業務とは異なる仕事、例えば兼務先の業務は「副業」と捉えることができるし、出向などとなればなおさら、出向先での業務は「副業」に近いものではないでしょうか。

また、そういう捉え方をするなら、時給がいくらか、というのも、必ずしも問題ではなくなります。もちろん、じりじりと給与が減っている現実の中で、副業で稼いで生活費の足しにすることが切実なケースもあるのだと思います。副業の話題を扱った記事で、「副業解禁と言われても、今さらコンビニでレジ打ちのバイトしたってなぁ…」というような声が紹介されていたりするのですが、これは生活費をどうするか、という視点での話。

しかし、実際のところ、バイト的な副業であれば、コンビニのレジ打ちではなくても、どんな仕事でも時給の額などはたかが知れていて、そうした副業分の収入など、お小遣いの足しになるくらいがせいぜいではないでしょうか。

よほど生活費に困っているのでない限り、副業は直接的に「今の」お金を稼ぐため、というよりも、「将来の」お金を稼ぐために、知識や経験、スキルや人脈などを得るためのもの、と捉える方が、長い目で見て役に立つのではないか、と思います。

私自身の、副業と本業、そして複業の捉え方を図にしてみました。

最初の本業(ここでは「本業0」としました)の時点は、つまり社会人としてのスタートであり、この時点で私が定義する意味での副業は、原則的にはしないほうがいい、と個人的には思っています。核となる仕事のスキルという土台がないままに副業を有効に積み上げて行くことは出来ないと思うので。そして、よく言われる「1万時間の法則」が、一つの仕事について一定のレベルに達したと考えらえるために必要な時間だとすると、最短で3年は一つ目の本業に時間を使えるのが理想的ではあるかな、と思います。実際には、なかなかそうもいかない事情が出て来るのかも知れませんし、最初に選んだ仕事や会社が3年の時間を使うに値しない、と判断したら、振り出しに戻してやり直しをする、という選択もありうるのだと思います。

一つ目の本業(本業0)が一定のレベルに達したところで、将来の「本業1」につながる副業をスタートさせ、時間を使ってレベルアップして本業と言えるレベルになれば、本業0と1は、お互いに「複業」の関係になって行きます。

そこにさらに副業2をスタートさせて…という形で積み重ねて行くことで、自分ができる仕事をポートフォリオ化していき、また本業間の相互作用を活かして、他の人には出来ない仕事のアウトプットが出せるようになってくれば、他の人に代えがきかない仕事、競合が存在しない=価格競争に巻き込まれにくい仕事ができるのではないか、と。もちろん、少々理想論すぎるきらいはあるかも知れませんが、市場が求める「本業」を選び、そこで各本業のレベルを長く維持して行くことができるなら、これはあながち絵空事でもないと思うのです。

こうして、3つの本業がしっかりと並存して、そのシナジーが生まれる状況は、藤原和博さんがいう「100万人に一人の人材」になれている、という状況なのだとも理解できます。

自分を100万分の1のレアカード化させよ――藤原和博氏が語るAI時代にも価値を創出する働き方

じゃあ自分はどうなんだろうということで、「副業」を上に書いた私なりの定義で捉えて、上の一般的な図式に当てはめて、自分の「本業」「副業」「複業」の棚卸しをしてみました。

 

会社勤めが1992年から2016年までの約25年、この間に「広告・マーケティング」「通信」「スタートアップの投資育成と事業開発」という、主に3つの業務ジャンルを経験しているので、本業が3つと言っていいかも知れません。ただ、「広告」については、ほぼ実務に触れなくなって10年近いので、現在は「マーケティング」「通信」「スタートアップの投資育成と事業開発」ということでしょうか。オーバーラップしている期間がありますが、3つの本業を25年でやってきたということで、一つの本業あたり7-8年の時間をかけていますので、1万時間の法則はクリアしていると言って良いのかと思っています。

通信については、広告の仕事をしている中で、通信機器メーカーの海外マーケティング動向のレポートを作成して直接クライアントの部長さんに報告するという、広告会社の業務としては少々毛色が異なる仕事をさせていただいたことがきっかけで興味を持ち、自分自身がそこに深入りすることでさらにレポートの水準を高めることができたことから、長らく主に欧州の携帯電話市場について定期的に足を運んで実態をつかんでいました。

それが基礎となって、通信会社の担当に変わってからは、広告宣伝の仕事はほとんどせず、通信機器メーカー時代に得た市場動向の知見を生かして、経営計画のディスカッションをお手伝いをしたり、新規市場開拓のフィージビリティのお手伝いをしたりしていたのですが、ご縁があってその通信会社に出向することになったのでした。

そこで通信の真正面の仕事をするつもりでいたのですが、運命のいたずらもあり、予期せぬことでしたがスタートアップ企業への出資や育成にチャレンジさせて頂くことになり、一時期は出資先の外資系スタートアップ企業の日本法人にCOOとして事実上の出向をし(ダブル出向はできないので、契約書上は業務委託でしたが)、国内事業を立ち上げるという経験もしました。

こうした過去の「本業」をお客様ごとのニーズに合わせてブレンドし、不足するスキルはパートナーと組んでサービスを提供しているのが、現在の私の仕事であり、アクティブビジョンという会社の業務です。

この先も、次の「副業」をテストし、いけそうであれば「本業」として積み上げて、さらに提供できるサービスの幅を広げていきたいと思っています。今後は年齢のこともあるので、「1万時間の法則」にかかる年数を10年くらいの長めのスパンで考え、70代ないし80代くらいまで働くとして、あと2つか3つの「本業」が積み上がるなら理想的だな、と思っています。

ただ、加齢の影響を織り込んで、今後はストック型で労働集約的ではない「本業」も考えていかないといけないな、と思うと同時に、健康維持の目的も加味して「肉体労働的」な「本業」も取り混ぜていけるといいのかな(それが、ひょっとして以前から構想としては温めているワイン(ぶどう)作りだったりするのかな?)、なんていうことも考えています。

最後はちょっと個人的な話になってしまいましたが、「副業」について、こんな視点で捉えてみたら、コンビニのレジ打ちだって違う見え方がするのでは、と思うのでした。いつどんな立地の店でどんなお客様が何を買っていくか、をリアルに知ることができる、という意味で、実はマーケティング調査になってしまう、それも(少ないとはいえ)お金をもらいながらできるわけですから。

それを、ご自身のキャリアの中でどう活かすか、と考えたら、ちょっと面白くないですか?というのが、最近の一連の「副業解禁」の動きを見ていて、思うことです。

 

 

新しい「余生」の意味

働き方改革や、その一環としての副業の解禁、そして少子高齢化の中での定年延長などの動きを受けて、中高年の働き方とか、定年後の過ごし方に関する本や記事を目にすることが、このところ格段に増えたと感じます。

自分の場合、50歳前後で「繰り上げ定年」をして仕事に一区切りつける、と30台の半ばで決めていて、図らずもちょうど50歳で会社を辞めることになり、辞めたと思ったらこうしたブームというか流れがくるというのも不思議な感じがしてしまうのですが、「繰り上げ定年」をするといっても、そこでいわゆるアーリーリタイアメントをする、という発想ではありませんでした。

なにより、アーリーリタイアメントできるほどの老後資金が稼げていない、というのが大きいのですが(人生100年時代となり、「老後」が長引くのであればなおさらです)、自分は「仕事」が嫌いではないし、仕事を続けたいという気持ちも同じように大きくありました。ただ、その当時はまだ、一つの会社にずっと勤めることが一般的でしたし、副業も禁止されているのが当たり前でしたので、今の本業とは違う仕事をどこかの組織で始めて、50歳から20 年くらいをかけてもう一つの本業をやって、そこで引退かな、というくらいの意識でした。

実際に50歳を迎えてみると、時代も変わって、例えば会社法の規定の緩和で個人が会社を作って起業することも格段にハードルが下がりましたし、そういう動きをサポートするサービスも生まれ、必ずしも既存の組織に属さなくても仕事を続けられる条件が整ってきています。この流れはここ数年でさらに加速していると思います。

むしろ、追いついていないのは私たちの意識の方で、転職したり起業したりすることの可能性とリスクを、自分が社会人になった当時の状況をベースに考えていて、現実に即した判断ができていない、というケースが多いのではないでしょうか。

自分の場合は、海外での仕事を通じて現地のカウンターパートの人たちとのおつきあいをプライベートなレベルに深められたことや、出向を通じて異なる会社で働きそこでスタートアップ企業と仕事をする機会に恵まれたことなどがあって、仕事を通じて現実の世の中の動きを知ることができたことは大きな幸運でした。

「繰り上げ定年」後の「余生」は、かつての余生の意味とは大きく違って、言ってみれば「社会人としての再スタート」です。若さで劣っている分を、時間やこれまでの経験で補いながら、2回目のテイクオフを果たすこと。それが、現代的な意味での「余生」かな、と思いますし、もう少し時代が進むと、それが3回4回ということも珍しくなくなって(現代でもシリアルアントレプレナーはそういう人たちだと思います)、「余生」という言葉も消えていくのかもしれないし、あるいは90歳以降の人生のことを指す言葉になるのかもしれないな、と。

大学時代の恩師は、若くして気候学の分野で大きな学術的業績を残した人で、専門外であるにもかかわらずマイナー言語の辞書を作ったりなど多才(かつ多彩)な活躍をされた方でしたが、その大きな業績を残したあとに「あとは余生を送るだけです。」とおっしゃられた、という逸話がずっと頭に残っています。自分が耳にしたわけではないので詳しくはわかりませんが、40歳の頃には「余生」を送る生活に入られた、ということになるのではないでしょうか。実際に指導していただいたのは、もう先生が定年に近い頃でしたので、この言葉が発せられたのは当時としても古い話なのだと思います。

恩師が若くして送り始めた「余生」を、先生よりもずっと遅い年齢から、しかも大きな業績を残したわけでもないながら自分も送り始めた中で、「あとは余生を送るだけです。」という言葉が、再び頭の中で響いています。

人とお金の余剰(余裕)が生み出す価値

このところ、評価の高いホテルやレストラン等に行ってつくづく感じるのは、「サービス」とは人とお金の余裕ないし余剰が生み出す価値である、ということです。

至極当たり前のことなのですが、人手不足で働き手が見つからないことと、一見景気が良いように見えて、「安いことに価値がある」という発想に染まってコスト削減にばかり目がいっているのが日本全体の傾向で、当たり前のことが当たり前になっていない、という印象が拭えません。

確かに、国内経済はインバウンド景気で潤っている一面はありますが、それは日本のかつての「サービス」レベルが維持されていることによるものとは限らず、劣化しつつも諸外国よりはまだ平均的にはマシであることで、訪日客の皆さんがお金を払っているにすぎないのではないか、という懸念があります。そうであるなら、いずれはこの劣化しつつある日本のサービスを海外の「サービス」が上回る日が来るでしょうし、それはさほど遠くない将来と考えるべきではないか、と思うのです。

実際に、アジアの国でもちゃんと人とお金をかけている「サービス」の品質は、ホテルやレストランの客室や料理といったモノやハードのレベルと相まって確実に高まってきていて、それに見合ったお金を払うだけの価値があるものになってきているというのが偽らざる実感です。そして、中国に顕著に表れているように、「サービス」を高めたり、少なくても悪いことをしないことが自分の「クレジット・信用」そして給与にダイレクトに反映される社会になってきている流れが、(中国に限らず)レベルアップを加速しているのだと感じます。

一方で、日本の国内を見ると、冒頭に書いた通りこうした流れとは逆の方向に行っているのではないか、という懸念があります。知名度の高い国際ブランドを冠したある都内のホテルのレストランは、かつては料理が好きでよく行っていたのですが、しばらく前からフロアに人が足りておらず必要な時にスタッフの方を呼ぶことができにくくなって、シェフの交代や懇意にしていたスタッフの離職という要因もありますが、足が遠のいてしまいました。また、やはり高級とされる有名ブランドを冠した別の東京のホテルに宿泊したがガッカリだった、という日本人の知人の話を聞いたりもしています。

ここでいう「サービス」は、日本語での”サービス”ではなく、ちゃんと対価が発生するもののことで、決してタダではない、金銭で測れる価値があるもののこと。その価値に応じて値付けに反映されている、つまりは高く売られ、そして高く買われているものです。

そこでは、むしろ「サービス」の価値を高めたことに応じて価格も高めていき、それが働く人の収入も高めていく、という循環が感じられます。一方で、日本では、「やりがい搾取」などとも言われる働き手の「サービス」へのタダ乗りが横行し、適正な価格設定ができないままに、全体のレベルが低下してしまっているのではないか、という懸念があります。

また、こうした視点が、今の「働き方改革」と称する一連の流れには欠けているように感じられます。副業解禁も、本来払うべき給与を払えないから副業で補ってくれ、というメッセージとも受け取れなくない気がします。(念のために申し添えると、私は副業解禁自体は悪くないと思っています)。

本当にコストの削減=価格の据え置きないし低減が、働き手はもちろん、顧客にとってプラスになっているのか、いわば「日本の常識」を疑うところから始めた方が良いのではないかと、毎日補充されたり古いものが置き換えられていつまでたっても「ウェルカム」が継続する、アジアのあるホテルの「ウェルカムフルーツ」を眺めながら考えてしまいました。

 

 

学歴と、報酬と。

4月も終わりに近づいて、ぎこちなくいつもの風景に割り込んできていた新入社員のういういしい姿も、徐々にいつもの日常に馴染んで溶けていっているなぁ、と思う頃になりました。

新入社員のうち、ないし、新卒での就職活動には、人物の選考とか評価判断に学歴というものが大きな比重を占めていて、それはまだ社会人としての実績がなく、他にこれといった汎用の判断基準がないため致し方ない部分もある、とは思います。

ただ、これが社会人になって10年20年と仕事をしてきた人でも学歴に縛られるのだなぁ、という事例を、ここしばらくの間でいくつか見聞きしました。こういう人の場合、第一義的に業績や成果を含めた職歴で評価されるのが妥当だと思いますが、実際にはなかなかそうでもない。

一定以上の仕事上の業績があると周囲が認めるような人であっても、転職もさることながら、学び直そうとして大学院に行こうにも、四大卒の学歴がないばかりに事実上の門前払いを食らう、というのは、自分の周囲でも散見される事実。

そして、サラリーマンであれば会社の規則上、最終学歴によって報酬(給与)の差がついてしまうように定められている場合が多いですが、組織に属さない自営業であっても、学歴がないが故に正当と思う報酬額を設定できないケースがある、というのを改めて知りました。十分な業界経験と実績があるにも関わらず、学歴が低いことが心理的な負い目となって、正当と思える報酬額を提示・設定することに躊躇してしまう、ということのようです。また、実際に、学歴で文字通り「値踏み」をし、支払う報酬額以上の業務の成果を求める、つまりは安く使おうとする人もいるようです。

もちろん、大学に行っている期間は働かずに授業料を払って学んでいる分、卒業後にその投資を回収できる報酬が得られることは理にかなっている部分はあると思いますが、実績がありながら学歴のなさが心理的な負い目になって、正当な報酬を設定できないのは悲しい現実だなぁ、と。

学歴で人を見る、というのは、必ずしも日本に限ったことではない事態。一方で、若いうちに学歴の全てを積み、その後は働くだけ、というのは、これはかなり日本に特有の事態。平均の大学の進学年齢が日本ほど若い国も珍しい、というデータをどこかで見かけました。

そうであれば、どこかのタイミングで、例えばそれが仮に60を過ぎてからであったとしても学び直しの機会を得て、学歴に関する負い目を解消し、自信を持って正当と思う報酬を設定できるようにするということは、とても理にかなった時間とお金の投資ではないか、と。

少子化で高校から進学してくる学生が減っていく分、こうした社会人の学び直しで学歴を補充する機会を広げることに、大学が取り組んでくれるといいなと思いますし、自分も、タイミングをみて、大学あるいは大学院での学び直しの機会があれば、と、中期的な将来計画の一つには入れているところです。

大企業の新規事業・スタートアップ連携成功の最重要ポイント

昨日はKDDIの高橋社長が就任後初めてのプレスカンファレンスを行ない、その報道やSNSへのジャーナリストさんの書き込みなどを追っていました。

色々なテーマに関して新たな発表もありましたが、中でも、総額200億円でKDDI オープンイノベーション3号ファンドをスタートさせることについて、興味深く拝見していました。

KDDIがオープンイノベーションファンドを発表したのが2012年。その前年にはKDDI∞Labo(ムゲンラボ)がスタートしています。実に7年もの間、継続的に、ファンドからの投資や、インキュベーション・アクセラレーションプロブラムの実施によって、スタートアップ企業と関わり続けています。

そういう継続的な取り組みが下地にあることで、ソラコムなどの資本提携も実現し、そのソラコムが3号ファンドではIoT分野の投資先ソーシングや事業シナジーの設計などを担当すると読みとれるスライドをSNSでみました。

∞Laboの初回の挨拶に登壇した当時の田中社長もそうですし、また現社長の高橋さんも、一貫してスタートアップ企業への前向きな取り組みスタンスがぶれていないこと、これが、KDDIがスタートアップ企業との取り組みに意欲的な企業のナンバーワンという調査結果につながっており、実際に様々な成果が生まれつつあることの最重要ポイントである、と感じています。

もちろん、社内の担当者がハッパをかけられている(であろう)こともわかりますし、平坦な道のりではないことは想像に難くありません。こうした担当者の努力もなければここまで続いていないと思います。

一方で、担当者の意欲は高いのに、トップの方針変更で、実を結ぶことなく終わってしまう大企業のベンチャーとの取り組みも、決して少なくないように思います。ずいぶん前ですが、各企業のインキュベーション・アクセラレーションプロブラムの継続回数を調べてみたら、回数にして2-3回、年数にして2年前後で終了してしまっているものが大半でした。こうしたプロジェクトに積極的に関わっていた担当者の無力感や失望を考えると、とても辛いものがあります。

これは、スタートアップ企業との連携にとどまらず、新規事業開発でも似たような現象が起きているように感じます。

ある大きな企業の依頼で、成功する新規事業・スタートアップ連携の要因について講演をさせていただいたことがあるのですが、色々な要因はあるものの、何よりトップの積極的な姿勢がぶれないこと、それが最重要のポイントであると申し上げたのですが、改めてその通りだと思います。

自分が少し関わらせていただいたので贔屓目も多分にあるのかもしれませんが、離れてある程度客観的に見ている(はず)の今でも、これはなかなか得難い状況だな、と思いつつ、高橋新社長の下で働いてみたかったな、と、独立してしまったことを少し残念に思いながら会見の記事をよみました。