開業1周年を過ぎて(昨今思うこと考えていることなど)

ずっと更新しないままになっていたブログですが、年度末のバタバタとした状態に追われて、3月13日の開業1周年にも何も書かずじまいになってしまいました。読まれていないようでいて、実は案外見てくださっているものだ、というのがわかって来まして、大変申し訳ないと思っています。

自社はともかく、お客様で3月が年度末、という会社が圧倒的に多いので、やはりその関係で3月はとても気ぜわしく、忙しい1ヶ月でした。自社の決算月を3月にしなくてよかった、と改めて思います。

そんなわけで、自社の第1期は昨年10月に終え、2期目に突入しているのですが、おかげさまで、なんとか会社として回っていくようにはなって来たかな、という状況で1周年を迎えることができました。

思うところは色々とあって、また一つひとつのテーマには書いていきたいことがあるのですが、箇条書き的にこの1年をふりかえって思うところを列挙しておきたいと思います。


・「営業」はとても大事だが、一般に言われる「営業」らしいことはしなかった1年。過去に自分がやって来たことが、結局今の「営業」として機能している、と感じる。その裏返しとして、世間で言われ思われている「営業」の狭さ・意味合いの低さ・軽さをとても残念に思う。

・過去の自分がやったことが「営業」になっているということは、今やっていることが未来への「営業」。なので、今の仕事、いまやっていることに真摯に向き合って行かないと、自分と自社の未来はない。

・組織を離れて(会社勤めを辞めて)、かえって組織のことがわかって来た、感じられるようになって来た、という気がする。そういう視点で見ると、自分がサラリーマンとしてダメだったところを痛感する。一方、ダメだったからこそ、今独立して仕事ができているという一面もあるように思うので、難しいところ。いずれにしても、サラリーマン時代にお世話になった皆さんへの感謝の気持ちは、独立して一層強くなった。

・かつて所属した組織からも仕事を頂く幸運に恵まれた。その理由を考えると、その組織に、自分がやっている機能を持ち合わせている人がいないか少ないか。それは、裏返せば、その組織としてマイナーで、必ずしも歓迎されない仕事を自分がやっていたのだ、ということ。それを許してもらっていたということで、これもとても有難いこと。一方で、ある組織でメジャーな仕事をしていて独立した人は、元の所属組織とかぶる仕事になるので、古巣から仕事をもらうことは難しいし、場合によっては競合とみなされる難しさを抱えている、ということにも気がついた。

・Strength FinderやMBTIなどで、客観的な自己像を理解するように努めた1年。とくに前者の「親密性」と「社交性」の違い、自分は「親密性」はそこそこ強いが「社交性」は弱い、ということは、とても大きな示唆だった。多分、直接の上司とは「親密性」の関係をとり結ぶことができ、守っていただいたケースがとても多かった反面、「社交性」は低いので、一般には理解されにくい、というサラリーマンだったのだろうと思うし、「親密性」のおかげで、深くお付き合いをさせていただいたお取引先の方々とは、受発注の関係を超えて、長いお付き合いを頂けているのだろう、と。

・これも結果論ながら、大企業とスタートアップ企業の双方を対象にビジネスを設定したことは、想像以上にプラスを産んでいる、産みはじめている、と感じる。それは、懇意にしているスタートアップ企業は自分の居場所を提供してくれていて、それが自分の精神面で大きなプラスをもたらしてくれているということや、規模や業種の多様性があるお取引先の仕事をさせてもらうことで、当然ながら守秘義務は守った上ででも、様々な相乗効果をもたらすことができる、ということ、その大きさを感じることができた1年。

・独立してもサラリーマンであっても、おそらく抱えるストレスの量は本質的には変わらない。ただ、その(性)質・種類はまったく逆といってよく、どちらのタイプのストレスに対する耐性が強いかで、独立への向き不向きが決まる(少なくてもその大きな要素である)。

・ストレスとも関連して、メンタルのマネジメントはとても大切。ひとりないし少人数で仕事をしていく上で、家族以外に、(仕事上の)雑談・世間話ができるような場、そういう気心知れた人たち、気のおけない仲間があるかどうか。自分の場合、それを、シェアオフィスへの入居、スタートアップ企業のオフィスでの定期的な仕事、前職時代からの顔見知りとのチームでのプロジェクト、といったものに支えられて来た、ということに改めて気づく。

・サラリーマン時代には、自分の興味関心やスキルがあったとしても、組織の制約でやることが出来なかった仕事があり、また、それゆえに声をかけてもらえなかった仕事もあった(のだろう)ということを実感。

・一人とか小さい単位で仕事をしている人たち・仲間たちと、それぞれの得意分野を生かす形で仕事をネットワークするようにして、同じ組織ではなくても、機能的には一つの組織と同じように成果を出せたらいいと思うし、装置産業では難しいけれど、サービス産業ならそれは十分実現性があるように感じている。

・世間一般の「働き方改革」の議論はとっても矮小化されていて、AI・ロボット時代に人間はどう働くかという視点や、そもそも時間で測られるべきではない仕事まで「長時間」労働が問題視される(一方、成果を出せば規定の就業時間より労働時間は短くてもいいよね、という議論は出ない)、など、これで大丈夫なのかな、という不安は大きい。


・・・などなど、とりとめもなくなってしまいましたが、そんなことを日々感じ、考えながら過ごしております。

このブログも、できるだけ更新をして、皆様に近況のご報告をしていきたいというのが、2018年度の目標。昨年から始めた中国語の勉強も、そろそろ具体的な目標を定めてブーストしていかないと、と思っています。

これからも引き続き、アクティブビジョンをどうぞよろしくお願いいたします。

AIとお弟子さんを採用する時代が来るのかな、という話

少しづつ頂く仕事が増えるにつれて、そのうち弊社もだれかをメンバーとして迎える、ありていに言えば人材採用して雇用することを考えるときが来るのだろうか、なんていうことを、ふと思いました。

会社を作ったのは、個人だと受けられる仕事に制約があるということで、ビジネスチャンスを狭めないためでした。実態は個人事業主と変わらないのが現状ですが、会社を作る過程で「将来どのようにビジネスを大きくし、雇用を生むのか」という問いかけを頂くことも何度かあって、会社のメンバーを増やすということが気になっていたのは事実。

一方で、すでに様々なアウトソーシングサービスがあり、遠からずロボットないしAI(のうちでも「浅いAI」)がそれをこなす分野も出てくることになるのだろうと思うと、「猫の手を借りる」タイプの人材雇用はすでに必要がなくなってきているし、将来はなおさらそうなのだろうと思います。いわゆる「しくみ化」のできる仕事は、そのしくみをロボットやAIにインプットすることが容易だということでもあり、早晩、人間のやることではなくなるだろうし、人間がロボットやAIと並んで同じ仕事をすることは、悲劇しか生まないと思っています。

チャップリンの映画「モダンタイムス」では、機械と並んで同じ仕事をし、歯車に巻き込まれる人間をコミカルに描いていましたが、実際には、機械のパフォーマンスに劣る人間が機械と同じ仕事をすることは苦痛なだけでなく危険なことであり、報われないことだし、人としての尊厳を失いかねない。

かつての産業革命で機械が肉体労働を代替したように、第4次といわれる現在の産業革命では、知能を持った機械、つまりロボットやAIが、一定の判断まで含めた人間の頭脳労働の一部を代替するだろうというのが一般的な予測ですし、そこで知能をもった機械にパフォーマンスで劣ることになる人間が従来の仕事にしがみついていても、幸せなことはないだろう、と思います。

となると、自社にメンバーとして迎える人材とは、自分(自社)の仕事のコアなところをどう分担するか、あるいは自分(自社)のコアコンピタンスとシナジーのある別なコアコンピタンスを持つ人をパートナーとしてどう迎えるか、ということになるのかな、と。

別な言い方をすると「新卒一括採用」的なやり方では、立ちいかなくなるように思います。もともと規模が小さい企業であれば「一括」というほどのまとまった人数を採用できないですし、一方、大企業であれば人力に頼るべきでないところは今後どんどん知能をもった機械が採用されていき、その分、生身の人間の採用は相対的には減るのかもしれません。

むしろ、ちょっと先祖帰りをして、かつての徒弟制度でお弟子さんをとったり、あるいは丁稚奉公の丁稚・小僧さんをとったりしたことに近い人材採用が再発見されるんだろうか、とも思います。

私の祖父は文楽の三味線弾きでしたので、徒弟制度の中に生きた人だったわけですが(とはいえ私が小学生のうちに亡くなったので、詳しいことはあまりよく知りません)、自分もまた、新たな形の「お弟子さん」を探し、育てて、仕事仲間を増やしていくことになるのだろうか、それが自分の会社にメンバーを迎えるということの具体的な姿なんだろうか、と。

もちろん、これは自社のコアの価値自体が、知能をもった機械では(少なくても当面の間)代替できないものであるかどうか、つまりは自社のビジネス自体の賞味期限というところがまず検証されなければいけないのですが。

そして、それが仮にOKであったとしても、メンバーを迎える=人を雇う=お弟子さんをとるだけの基礎的な企業体力をつけないことには絵空事でしかなく、まずは、自分(と家族)が食べていくことに十分といえるだけのビジネスにすることが先決であり、目先の課題ではあるのですが。

メール/メッセージの ”セブン・イレブン” ルール

NHKラジオに「実践ビジネス英語」というラジオ講座があって、時々ブランクがありつつも聴き続けているのですが、先日この講座の英文のテーマとして、効率的に(生産性を高めて)メールを使う、というのがありました。

すでに、特にスタートアップ企業とのやりとりでは、普段のやり取りの主役はもっぱらメッセンジャーサービスで、改まった時だけ(たとえば、初めてのお取引先とのやりとりなどは)メール、といった感じです。言ってみれば、郵便を出すような感じでメールが使われている。従来型の企業で、一定以上の役職者の人事異動や組織変更の時に上質な紙に(縦書きで)ごあいさつ文を印刷し、筆耕した封筒でお出しする感覚にちょっと近いかもしれません。

その意味では、メールだけでなくメッセージのやり取りもそうですが、際限なくやるのではなく、少なくても相手がオフの時間には送らないようにし、自分もメールやメッセージの送受信にあてる時間を限定し集中させることで、プライベートをお互いに尊重し、生産性も高めよう、という動きがある、というのが主旨でした。

90年代半ばのビジネス現場でのメール導入初期には、まだ”上司たち”がメールを使っていなかった(使えていなかった)こともあり、その優越感も手伝ってメールを使える若手同士で昼夜を問わずやり取りをしていたのを思い出しますが、もはやそれも20年以上前のこと。

自分が年齢を重ねたこともありイレギュラーな時間帯や休日に(年長者が)送信することで相手に負担(特に心理的なもの)をかけるのもよくないし、独立したこともあって、ますます時間の有効活用が課題という認識もあり、自分としても、なるべくメールやメッセージのやり取りを平日のビジネスアワーに限定し始めています。できれば、メールチェックはデスクでは1日に3回くらいに集中して行い、あとは移動中にモバイルで、というくらいに出来れば理想と思ってはいるのですが。

とはいえ、書くのに時間がかかる内容もあるので、最近は深夜や休日に書いたものは下書きとして保存しておいて、平日の朝を迎えたところで送信、というのを心掛けつつあります。

折しも働き方改革とか生産性向上が叫ばれるご時世でもあり、メールやメッセージは、緊急対応などを除いて平日朝7時から夜はどんなに遅くても11時まで、この ”セブンイレブン” ルールを徐々にでも導入し、将来的には完全に守れるようにしたいと思っています。

ところで、このテーマもそうですが、アメリカのビジネス界の日常的な風景というか、ニュースにはならないような最新の”空気”が感じられる「実践ビジネス英語」の教材は、単に英語のスキルアップにとどまらず興味深い内容が含まれていたりしますので、ご興味があればテキストの和訳を読むだけでもおすすめです。